RASAのフィリピン滞在記。その4。

こんにちは! #手のかかるロビンソンだなぁ の山内淳史です。今回はRASAでのフィリピン滞在記、第四回(最終回)です。

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2月20日(土)


いざ!ハンドレッドアイランドへ!


今日は、現地を訪れているRASAのメンバー全員と、そのホストファミリーとで観光地を訪れる、「エクスカーション」の日だ。
行き先は”ハンドレッドアイランド”と呼ばれる、アラミノスという街の近くにある群島。バスで向かう。

出発時間は朝9時の予定だったが、さすがフィリピンの時間感覚、実際にバスが出たのは9時半だ。田園都市線なら大混乱である。バス内はとても冷房が効いており、しかも陽のあたる窓のカーテンは全て閉じられていたので非常に寒かった。バスにはテレビが取り付けられており、往年の洋楽のライブ映像が流れていた。日本人からすればなんだこれはという状況なのだが、フィリピン人からすればこれほど最大級のもてなしもあまりないだろう。冷房自体貴重品だし、音楽はフィリピン人になくてはならないものだ。

町を抜け、山を2つほど超えて、1時間ちょっとくらい。目的地に到着した。バスを降りるといきなり売り子と遭遇する。「暑いから帽子がいるだろう」といって帽子をむりやり被せたうえで金を取ろうとする人や、サングラスをこれでもかとカゴに入れて売っている人もいる。

この日は確かに異様なほど暑かった。なので不本意ではあったが、バスを降りて真っ先にやってきた売り子から、100ペソのサングラスを買う。おそらく現地価格ではボッタクリ値だろう。しかし日本円にして300円ほど、日本人には嬉しい価格設定なので、まあ今日は仕方ないというか。

ちなみにそのサングラスには、情けないヘロヘロのフォントでレイバンと書かれていた。

海へ向かう途中にも様々な売り子がいる。飲み物、食べ物、アイスクリーム、お土産、、、マナワ教会の謎の聖母像やろうそくよりは、きちんと需要は押さえているようだ。

そんな中に、何も売らずただひたすら金をくれよといっている8歳くらいの少年がいた。体じゅう真っ黒に日焼けし、足は骨だけのように細く、服はボロボロのタンクトップと短パン。見ていて心が痛かったが、こういう子供がフィリピンのどこにでもいるのだ。こういうのは断るように言われていたのでとりあえず距離をおいたが、うちのホストファミリーは彼に小銭を渡していた。いま彼は元気にしているのだろうか。

さて、自分はてっきりここがハンドレッドアイランドだと思っていたのだが、実際のハンドレッドアイランドにはここから船で向かわなくてはならないようだ。バスを降りたときのウキウキを返せと言いたいところだが、それより、船に乗る前にトイレに行きたい。サンダルも水着もカバンの中だから着替えておきたい。そう思ってトイレに行くのだが、なぜかトイレの入口に受付がある。そう、ここのトイレは有料なのだ。20ペソ取られる。そのお金はホストファミリーが出してくれた。一緒にいたトモさんの分も。


オンボロ船でアラミノス島へ


準備を済ませて、船に乗る。船と言っても漁船やクルージング船とは違う。どっちかというとお台場の屋形船だ。その屋形船に15人ほど乗り込み、出発する。ライフジャケットが、結構沖合に出た頃に配られる(危ない)。そしてなぜかトウモロコシも配られる。きっとホストファミリーの誰かが持ってきてくれたのだろう。私はコーンが大好きな人間なので、大喜びでかじりついたが、これが、クソまずかった。日本のスイートコーンが甘さ100とすると、このコーンは0である。いやむしろコーンというより練り消しだ。美味しい練り消し。真顔で練り消しをかじり続け、ちゃんと完食したよ。偉いでしょ。

さて、完食するタイミングでちょうど、ハンドレッドアイランド全体が見渡せる島にたどり着く。島の頂上まで階段をヒーヒー言いながら登る。一緒に登った白井さんは、地元の日進市で鍛えられているから、と余裕の表情だ。馬力が違いますよ。
頂上ではみんなが思い思いに写真を撮っていた。もちろん自分も撮る側撮られる側と大忙しだ。フィリピン人は日本人以上にカメラが好きで、しかも写真を撮るにしても何連写されるかわかんないほどだ。セルカ棒とか、アプリの「B612」とかも普通に使っている。

ちなみに、冗談好きのジェリーはここがバッドマンの秘密基地だと言っていた。そうかそうか。

次に向かったのが、アラミノス島。ここは心の底から最高の場所だと思った。何と言っても白い砂浜、透き通った海。船着き場の右手にはきれいなビーチが広がり、左手には赤い塔が建っており、そこからビーチを横切るようにターザンロープができるようになっている。

ビーチの方向へ進み、波打ち際を歩くと海の家的な場所にたどり着く。ここで、ホストファミリーの各家庭から持ってきたお昼ごはんを食べる。机を同じくしたメンバーがほとんど少食だったので、良い食べっぷりを見せたのはトモさんのみだ。そうなると何が起こるかというと、みんながトモさんに食え食えと皿を出す。結局トモさんは大盛りご飯を2杯平らげた。少し後ろめたい気分になったのだが、これは自己責任だろう。私は普通に1皿のご飯とおかず、あとプリンのような甘いお菓子をもらった。


フィリピン水着回!


その後、いよいよ海へ入る。フィリピンでは日差しが強いため、日中は上半身にTシャツを着ておかないと肌が危ないそうだ。そんなわけで、しまむらで買ってきた、「ラスベガス」と書かれたTシャツを着てフィリピンの海へと向かった。水着はオーストラリアに行ったときに買ったオーストラリア国旗柄である。私はどこの国の人間なのだろう。自他ともにそう思ったに違いない。

2月だというのに、海で泳げる感動。冷たさも少しはあるが、ちょっとすればすぐ慣れてしまう。原さんに早速捕まり、投げ飛ばされる。お風呂のないフィリピンで、最初で最後の、全身を水に浸す瞬間だった。

私は泳げないが、遠浅なので身長を活かせば結構遠くまで歩いていける。ちょうど足がつかなくなるところで岩場があったので、よっこらせと登れる。周りを見回すと波打ち際で遊んでいる人や、ターザンロープに乗る人、岸辺から海に飛び込む人。思い思いに遊んでいる。これぞリゾート。南の島。最&高の時間である。フェイちゃんもジェリーも泳ぎを楽しんでいた。

ちなみに、ターザンロープは有料だったのだが、受付の兄ちゃんに「韓国人?」と聞かれた。きっと韓国人観光客もよく訪れるのだろう。ちょっとムッとする。だがここは文句を言っても始まらない。ほならね、フィリピン人とマレーシア人を見分けてみろって話ですよ、と自分に言い聞かせて、その場を去った。


貧しい子どもからお土産を買ってあげる、の巻


さて、船でルソン島に戻る。ここからバスのりばを目指すのだが、船を降りてすぐにまた売り子が寄ってきた。「お兄ちゃん買ってよ」と目をウルウルさせながら、ハンドレッドアイランドの貝殻で作られたキーホルダーのお土産を突き出して来る。

こういうとき、売り子と目を合わせていると、周りの他の売り子もあれを買えこれを買えと、もう埒が明かなくなる。私は謎の正義感に駆られ、「この子が一番に来たんだ。俺はこいつから買う」と声高々に叫び、子供の手を引いてその場を離れ、「いくらだい?」と聞くと「100ペソだよ」という。とうとう100ペソもする、6個入り手作りキーホルダーを買ってしまった。少年は100ペソ札をぎゅっと握りしめた。か細い声で「サンキュー」と言った。

さて、ここで終わっていれば、良い話なのだが。

私がポケットにキーホルダーを突っ込んだ瞬間、「もう一個買え」と言い出しやがったではないか。「もう買ったからいらないよー」というのだが、バスのりばの近くまで、少年は買え買え言いながらてくてくと付いてきた。

うぜえ。

余談だが、このキーホルダーは今現在も、うちの玄関で眠っている。思いがけず、我が家に残ったフィリピン土産の一つとなったのである。

2月21日(日)


朝早く、漁へ出る


今日は朝5時おき。フィッシュファーム、つまり養殖場の見学に、珍道さん、トモさんと行くことになった。
珍道さんはすっかりうちのホストファミリーのジェリーと仲良くなり、「バリバリ」というニックネームをつけられていた。だから以下バリバリと表記する。
まず朝一で、トモさんを起こしに行く。起こすと言っても電話を掛けたりLINEをするわけではない。家の前で「トモーーーーーー!!!」と叫ぶだけだ。そこに近所迷惑という概念はない。

トモさんを無理やり起こして、出発の支度をさせている間にバリバリの家に行く。そして復路でトモさんを拾い、そのままフィッシュファームへ。正直、トライクルを使うほどの距離ではないと感じたのだが、これも大切にされている証なのだろうと思うと無性にウルっと来る。

さて、漁場についた。魚のとり方は至ってシンプルで、溜池に網を仕掛け、そこへ向かってもう一つの網で魚を追い詰める。そして追い詰めたところで網を引き上げて魚を捕まえるのだ。全ての魚を引き上げると、魚を入れておくために置いてあったかごには、もう底が見えないくらいのお魚天国になっている。

そして漁も終わろうという頃合いになって、三木と合流した。そこから、周りを散策したり、朝焼けの写真を取っている間に、漁はすっかり終わってしまっていた。その後は、その日の釣果をみんなで分け合って、家に戻ったあとに朝ごはんづくり。ジェリーと、母モニナとで、チャーハンと、魚を揚げたもの、パンケーキ、卵炒めを作る。全体的に油っぽいがこれぞフィリピンの食事だ。

途中で、おばさんがやってきた。どんなおばさんかとジェリー越しに聞くと、なんと姉が名古屋に住んでいたというのだ。更に、その姉の旦那が今も名古屋に住んでいるとかで、住所の書かれた紙を持ってきた。見せてもらうと、どう見てもローマ字で四日市と書いてある。四日市は名古屋じゃねえよと言いかけたが、説明が難しいし、ちょっと大人げないなと思ったし、ていうか四日市は実質名古屋みたいなものなので、言わないでおいた。


フィリピンを感じるハロハロとバリバリと。


そんなこんなで食事の時間。バリバリと、トモさん。なんだかいつも一緒のメンバーだ。

なんと今日の食事ではハロハロを食べることができた。ハロハロはお腹を壊して危ないから食べるな、とRASAの引率の方々から言われているのだが、今回は日本人に向けて特別に、ちゃんとした天然水で作ったというのだから、食べない手はない。

自分が割りとクズなのだろうか、一口目を口に入れるまで、ほんとに大丈夫?と聞いたりしていた。我ながら疑り深い人間である。しかし一口パクっと食べてみると、氷の冷たさ、フルーツの歯ごたえ、そしてココナッツミルクかなにかのほんのりとした甘さがなんとも言えず美味しい。ハロハロは現地語で混ぜるという意味なのだが、混ぜ混ぜして食べると全体的に甘みが広がって、ますます美味しい。

マンゴーの樹の下で、暑い太陽と、冷たいハロハロと、仲間と、フィリピンの家族たち。良いもんです。

この日の食後はモールへ行く予定だったのだが、ちょっと時間が空いたのか、ピーナツ畑へ行くことに。収穫を手伝うだとかなんとか言っていた気がしたが、どうやら収穫は終わっていたようで、同じ場所にいた大森さん、野々山さんとともにのんびり過ごすことになった。

畑の横の、高床の東屋に入って、収穫したピーナツをかじりながら、現地の人たちとまったり過ごす。ほんとに、まったり過ごす。東屋にはマットやクッションが持ち込まれ、お昼寝できるようになっていたのだ。何も考えず、ただ高床の東屋で南風を感じている。こんな身近な幸せなのに、日本ではなかなか見つけることが難しいように思う。

そこへジェリーとブライアンがバイクに乗って迎えにやってきた。一緒に東屋にいた女性の皆さんからは、ジェリーはイケメン、ブライアンは可愛いともっぱらの評判だった。こういうとき、男としては「ねえ俺は?」と聞いてみたくなるのだが、結果は見えているのであんまり深追いしないでおく。


日曜だから、モールへ遊びに行こう


帰宅し、シャワーをさっと浴びて、隣町のダグパンにあるモールへ向かう。ジェリー、マシュー、ブライアンと共にバスに乗り込む。リンガエン中心部を過ぎて少し行ったあたりで、途中下車。

マシューとブライアンに先にモールへ行ってもらって、ジェリーと私は、ジェリーの彼女さんの家へと向かうことにした。なんでも最近彼女さんの家がハンバーガー屋さんを始めたのだとか。

彼女さんの家は細い路地に面した家で、ミホという犬がいた。この時はジェリーの提案で、ストリートフードを試すことになり、鳥の血の塊や鶏の内蔵やなんやらグニョグニョしたものを食べて過ごしていた。そしてハンバーガーも頂いた。味の感想は「至って普通のハンバーガー」としか言えないが、ここは「マサラップ(おいしい)」というのが礼儀だろう。地域に愛される店になってくれればと思う。

さて、モールに向かう。中は前に行ったロビンソンより簡素であるが店は充実しており、なんとソニーストアもある。また面白かったのは「TokyoTokyo」という中華料理屋があったことだろう。東京なのに中華なのかよというのはさておき、東京東京というネーミングがなんとも面白い。私も名古屋名古屋という喫茶店を開業すれば東京東京のように流行するだろうか。

モールを巡る途中でブライアンたちに合流して、ゲームセンターへ向かう。途中で「アテ」こと岡部さんにすれ違う。

ゲームセンターでは、少し前に訪れたロビンソンのように、バスケットボールゲームがとりわけ盛況であった。中の賑やかさは日本と変わらないが、日本の中古を輸入しているのか、かなり古い部類の格闘ゲームの筐体が日本語表記のまま置いてあったりするのが印象的だ。そんなモールのトイレはきれいだったが、広いモール内に一箇所しかないので、ダグパンのモールを訪れる際は注意が必要だ。

その夜は、夕食後に近藤さんの家に向かう。まだ9時前だったのだが、フィリピンの夜は早いようで、ステラおばさんも近藤さんも寝床にはいっていた。やはり突然の来客に相当驚いていた。ステラおばさんに至っては、朝4時起きで娘を大学へ送っているらしいので、早寝なのも納得だ。てか絶対迷惑だろう、俺ら。

ステラおばさんは眠そうな目をこすりながら、テレビが楽しくて寝られないときもあるけどね、と笑っていたが、迷惑をかけてしまったようでちょっと申し訳ない気分になった。

このあとステラおばさんの家には岡田さんとバリバリも合流して、椙山1年のガールズトークの中で大学も学年も違う私は話においてかれることになった。

2月22日(月)


月曜日である


また学校での作業が始まる。先に言ってしまうと、この日から私は40度近い気温の中、鬼のようにスコップを振るう人間になる。砂山から砂を掘り出し、石をのけ、バケツの中へと入れていく。こんなに汗書いて頑張るのは久しぶりなので気持ちがいい。頭がクラクラしてくるがこれも逆に気持ちがいい。

この日は岡部さんが非常にご機嫌だったと記憶している。なんでもホストファミリーの男の人がとても優しいのだとか。フィリピンでは、女性をダイヤモンドのように扱えと教わるらしい。男として見習わなきゃいけないと思う。

午後の作業は暑すぎるために(!?)中止となった。代わりにひたすら踊る。校庭にスピーカーを設置して、授業中なのに大音量で「恋するフォーチュンクッキー」を流すのは迷惑以外のなんでもないはずなのだが、現地の人たちは「OKOK」と言って、機にすることなくスピーカーの音量を上げていくのだった。

学校のあと、ジェリーに再び昨日食べた鳥の内蔵を再び食わされる。味はミルキーで悪くないのだが、ビジュアルがどうしても「The・腸」なので二本食べてオエッとなった。


友人宅巡り


その後、ハンドレットアイランドで意気投合した、白井さんのホストファミリーの家に向かう。ロナルドのジュニア、頭文字をとって通称RJが迎えてくれた。

部屋は日本基準でも豪勢な作りで、大きなソファーと大画面のテレビが目に入ってきた。同じ街でも庶民と金持ちの家は違うものだ。フィリピンの貧富の差を感じてしまう。

この日はちょうどRJの誕生日だったので、ビーフン風ヌードルと大きなバースデーケーキを頂いた。また、RED BEERというフィリピンではポピュラーなビールを少しだけ頂いた。なにせ海外でお酒を飲むのは初めてである。何かあってからではヤバイので、ほんのちょっとに抑えておいたというわけだ。

その後。突然ジェリーが「友達のところに行くぞ」と言い出した。行ってみると、日本人がぞろぞろと外で連れ立っているではないか。夜のお散歩である。行き先を学校と決めて、会う人会う人みんな連れて夜のドマランダンの街を歩いていった。14人はいただろう、みんなで道いっぱいに広がって、暗闇を歩いた。街灯だけがひっそりと道を照らす。日本人だらけすぎて異国に来ている感じはしなかった。それだけに、とても思い出深い夜になった。

2月23日(火)


日本語学校、開校!


今日は、コロンバン学園の粋なはからいで、現地の教室で2時間のあいだ、授業をさせてもらえることになった。それに先立ち、昨日のうちから4班全員で、何をすべきか思考に明け暮れていたのだ。

担当するクラスは幼稚園だ。まあ折り紙は定番だろうということで折り紙をすることに。あとはしばらく悩んでいろいろな案が出たが、ハンカチおとしとボール投げをすることになった。


幼稚園児に、Origamiを。


前日のうちに準備を済ませ、鶴の折り方を勉強して、いざ図書館を教室として使っている幼稚園の子どもたちのところへ。

教室に入ると、中で2〜4人が班を作って小さな椅子に座っている。すると先生の指示で一斉に立ち上がり、「Good morning,visiter!」と元気に挨拶。いやあ、教育がしっかりしてるなあ。ビジターとしてハードル上がるなあ、、、、

冷静に考えたら、フィリピンという国で就学前教育できるくらい裕福な家庭のお嬢ちゃんお坊っちゃんが来てるわけだし、ちゃんと挨拶くらいできるのだ。

はじめ、日本人6人がたどたどしく挨拶して、その後は室内の机を片付けてボール遊びとハンカチおとしをやった。遊びの説明も英語でやったのだが、幼稚園のみんなはタガログ語しかわかんないので、突然やってきた奇妙な日本人を黙ってみているのが精一杯だったように思う。それでもハンカチおとしはなかなか好評だった。

15分休憩を挟んで、折り紙をする。この頃にはだいぶ向こうの子たちも日本人という生き物に慣れてきたようで、折り紙も大好評だった。自分も紙飛行機を大量生産して、まっすぐ飛ぶものから曲芸飛行をするものまでたくさん作った。特に林さんの折り紙が大好評で、フィリピンの子どもたちは彼女を取り囲んで真剣に折り紙をおるさまを見つめていた。林さんもあっという間に「アテ」である。そして気がつけば、あっという間に終了時刻の11時になっていた。楽しい時間だった。

このあとの作業は特に暑く、原さんと「雑念を追い払う」という信念のもと、ただ淡々と土山を築き上げていった。そして築き上げた土山からさらさらの土をバケツに入れて、バケツリレーをして運び、学校の土台にするのだ。

そんな作業もいよいよ暑さではかどらなくなってきたので、途中で「やってみたい!」と言って立候補してきた白井さんとスコップのバトンタッチをして、そこからはバケツリレーに徹したのである。

この一連の作業は、だいたい30分みんなで働いて、30分休むというサイクルだった。ボランティアの日本人は全部で6班に班分けされていたので、手分けしたりローテーションしたりということもあったが、それでも休憩時間はみんなたっぷりあったように思う。そんなこんなであっという間に、1日の作業は終わる。

この日の作業後は、ハロハロをゆっくり食べたあとに、穂積さんの家に向かう予定だった。しかし、行程はなかなかへんちくりんなものだった。まずジェリーとフェイと自分で家を出て、トモさんをトライクルに載せる。しかしトモさんは「マーケットに野菜を買いに行くと聞いたんだけど」と困惑気味だ。しかしそんなトモさんの心情は一切察することなく向かったのは白井家。一緒に行く気なんだな、と思って家の中を覗き込むが誰もいない。ジェリーが電話をかけて、ともこがどこか聞いているようだ。そして電話を切ると、「ビーチに行くぞ」と一言。この決断力と行動力はどこから来ているのだろうか。

とにかくビーチまでトライクルを飛ばす。飛ばすと言っても40キロ出れば上々なのだが、車高の低いサイドカーに乗っているとなかなかスリリングだ。フェイはジェリーの前に座り気持ち良さそうに風を浴びている。そしてビーチにつくと、白井さんの乗ったトライクルとすれ違ったので、180度ターンして後を追う。そしてようやく穂積さんの家についたというわけだ。

家にいる猫ちゃんが可愛いのが印象的だったが、白井さんを追いかけている間にずいぶん時間を使っていたらしく、あっという間に引き返す時間になってしまった。穂積さんも「町外れであんまり人が来ないから来てくれて嬉しい」と言っていただけに残念だ。


回想

さて、この日を最後に日記は止まっています。このあと、ダンスの本番や記念撮影や、色々あったのですが、色々ありすぎて書ききれませんでした。(マニラに戻ってからもずっと書いていたのでみんなに「どんだけ書くんだ!」と突っ込まれた)

なのでここからは、日記の書きかけと、記憶のかけらを辿って行きたいと思います。


フェアウェルパーティ


今日が学校に行く最後の日となる。今日は建設作業を手伝うのではなく、フェアウェルパーティと呼ばれるお別れ会をすることになっていた。コロンバンの先生たちがマイクを握り、アツいMCをする。
先生A「そいえば、日本といえばアニメだよネ!」
先生B「そうですネ!」
先生A「日本人の皆さんなら、ドゥレゲンベーズィーは知ってるよね?」
日本人「…?(-_-;)」
先生A「えー!ドゥレゲンベーズィー知らない!?先生大好きだよ、カメハメハー!」
日本人「(ドラゴンボールZか…!)」

先生B「では、次のダンスは日本のアニメソングです!みんなも知っているかも!」
「ボルテスファイブに〜全てをかけて〜♪♪〜」←昭和ソング

誰一人として、ドゥレゲンベーズィーボルテスファイブの歌も知っている日本人はいなかったが、それでも、日本の歌というものを愛してくれていることがしっかり伝わってきて、いい時間だった。

その後、日本人による「恋するフォーチュンクッキー」が始まる。この時は、女子はコロンバンの生徒さんたちのスカートを履いて踊る手筈になっており、統一感のある雰囲気だった。加えて、「イキりながら生きる」を標榜する三木は男であるにも関わらずスカートを履いていた。盛り上げ上手。

結局、日本人のダンスは大盛り上がりの大成功だった。翌日のフェイスブックは観客が撮影したダンス動画で溢れていたように思う。

まあそりゃ、日本人がリンガエン市ドマランダンという街を知らないように、向こうも日本人を知らないわけで、そんな日本人が街にやってきて、しかも散々練習を重ねて踊りを披露するともなれば、ムービー撮影のひとつもしたくなるのは間違いないと思う。


エドガルドの誕生日


そしてこの日は、ホストファミリーである父・エドガルドの誕生日だった。エドガルドは見た目は寡黙だが、話題に困ると自身の頭を撫でながらしれっとハゲネタを披露するような人なのだ。だから交友関係も広い。

で、フェアウェルパーティを終えた私が家に帰ると庭先に、なぜかカラオケマシンが置かれていた。これはフィリピン全域の文化ではないと思うが、少なくとも私が滞在した街周辺では、祝い事にカラオケは欠かせない。曲を入れるボタン、PVを流すブラウン管テレビ、スピーカー、マイクが一つになった、人の背ほどのサイズのカラオケ機をレンタルしてきて、近所迷惑なんて全く気にせず、夜まで歌い通すのだ。
私も2,3曲歌わせてもらったが、とにかく採点がすごく甘い。日本では80点弱しか取れないカラオケスキルなのだが、フィリピンでは100点連発である。これも国民性なのかな。

そしてご飯も贅沢である。バットに20人前は軽くありそうな量の料理を盛って、バイキングにして食べる。これも庭先に置かれているので、当たり前だがハエがたかる。そうするとハタキみたいな道具をワシャワシャと振ってハエを追い払う。だから、誕生日の日は飲めや食えや歌えや追い払えやのてんてこ舞いの大騒ぎとなるのだ。しかし私は、こうやってお世話になったフィリピンの人たちと食卓を囲むのはこれが最後か、と思い詰めてしまい、ちょっと寂しげな夜だったと記憶している。


帰国後


※私が当時執筆した、文集を転載したものです。

Y.A. さん

中部空港でいきなり搭乗券をなくした私は、免税店を見る暇もなく駆け足で飛行機に乗り込んだ。今までの飛行機と違って、座った椅子にはテレビもラジオもない。唯一の暇つぶしは座席に詰め込まれた中国語のファッション誌のみ。そんな飛行機に揺られて、やっとの思いでマニラに着くやいなや、2月とは思えない暑さが襲いかかる。

ワケもわからぬまま空港を抜け出し、怪しい電飾の提げられたバスに乗り込んで、大渋滞の街を抜けて、高速に乗り、途中「ジョリビー」というハンバーガー屋で休憩して、合計6時間はずっと移動していただろうか。ようやく現地にたどり着いた時にはすっかり日が暮れ夜になっていた。予定より、2時間ほど遅れていた。それでも、集合場所の学校に入ると、現地の人達は明るく迎えてくれた。到着の翌日は賑やかなダンスで、その翌日はリンガエンの美しい浜辺で、私達をもてなしてくれた。

滞在して一週間もたつと、学校中から「アテ」(お姉ちゃん)、「クヤ」(お兄ちゃん)の声が飛び交うようになった。休み時間にはバスケットコートからクヤと遊ぶ無邪気な声が湧き、アテはみんなと写真を撮った。現地の人と私達との間で仲間意識が芽生えてきた。このフィリピンでの日々は本当に充実していた。それは、普段の旅行では味わうことのない「生のフィリピン」がそこにあるから、だったのだろう。現地の空気、現地の生活を肌で感じられて、私達は活動を嫌がること無く続けられた。むしろ、もっと長く、いつまでも、この場所で過ごしたいという気持ちでいっぱいだった。

そしてリンガエンを離れる頃には、ボランティアとして慈善活動をするはずだった私達のほうが、現地の人達からより多くのモノを得ていた。それは、人を人として尊敬する心であったり、家族、親戚を大切にする心であったり、今日を笑顔で生きる気持ちであったりした。太平洋戦争の痕跡が残るこの土地で、フィリピンの人たちは、純朴さを忘れること無く、日々を明るく過ごしていたのだ。たしかに日本は、もので溢れかえり、なんでも手に入る。街は綺麗だし、交通はしっかりしているし、フィリピンと違って仕事もある。欲するものは何もないように感じる。しかし、明るい夜の街は星空の美しさを隠し、車のために張り巡らせたコンクリートは草木も野良犬も寄せ付けない。都会に伸びた、たくさんのビルは、街から夕日の美しさも朝日の美しさも覆い隠してしまった。家族みんなで健康に、日々感謝して暮らす。それはあまりにもあまりにも単純で、あまりにもありきたりで、それでいて私の知らない幸福だった。

ここまで書いて何が言いたかったのかというと、フィリピンに行けて本当によかった。


その後


2016年9月、私は再びフィリピンに行った。
同じときにフィリピンに行った4人とともに。

このときは、とてもきれいな川へ遊びに行った。そして屋台で売っている鳥の唐揚げの串刺しみたいなやつに思いっきり内蔵を破壊された私は、3日ほど眠れぬ夜を過ごし、帰りのバスでひたすらケツの筋肉をフル稼働させ、なんとか漏らさずにマニラに着くと今度は水に当たり、夜を迎える頃には謎の高熱を出し、同行した女友達にセクハラまがいの発言を浴びせかけていたらしい(自分は何も覚えてないけど)
かくして、マニラの夜は自分だけ一人部屋。
他のみんなは別の部屋でわいわい歓談を楽しんだらしい。

帰国してバイトに復帰すると、その日の午前中に思いっきり倒れ、当時言われていた「ジカ熱」の疑いをかけられた結果、バイトを早退して名古屋で一番大きな病院に連れて行かれた。

結果はただの風邪だった。私はどうも病弱だが、生命力は人一倍強いらしい。

フィリピンへ行って、いろいろ変わった。
それまで嫌で嫌で、でも時給が良いからやっていたドコモショップのアルバイトを辞めた。(時給が下がったのもあるけど)
また同じく嫌だった、学祭の人付き合いも減らした。
その年の秋には、2015年に比べてずいぶんと素直でチャレンジ精神のある人になったように思う。

この行動力を、どう活かそうかなぁー…


そして


トライクルのスケッチ。

2017年。

私は、またフィリピン行きの航空券を手にした。
仁川国際空港経由の、セブ行き。

学生生活最後の旅はフィリピンだ。
セブのリゾートでパーッとやって、リンガエンに「里帰り」して、TOKYOで働くことを自慢して、子どもたちと遊んで、若さを吸い取って帰って来るつもりだ。

どうせまた、謎の病気か、下痢か、皮膚病にかかるだろう。
ナンノコッチャない。住めば都…もとい、慣れれば都なのだ。待ってろリンガエン。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

平成30年4月24日 山内淳史

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